古式競馬 (日本) (Traditional Horse Racing (Japan))

この項目では、競馬(くらべうま/きそいうま)、または駒競とも呼ばれる日本の古式競馬(馬を走らせてその走行速度を競わせてその馬の優劣を定める競技)について記述する。

概要

『日本書紀』によれば、天武天皇8年(679年)の記事に良馬の駿足を鑑賞するために実際に馬の走り比べを行ったとする記事が存在している。
その頃には存在していた。
ただし、こうした鑑賞行事は祭会の際の走馬(はしりうま)として別個の発展を遂げた。
これとは別に馬の速さを競う宮中行事として毎年5月5日の節会に際して6日までの2日間かけて騎射(うまゆみ)とともに行われるようになった。

宮中行事としての競馬は主に未調教の馬を騎手が巧みに操って無事に走行させるかという乗尻(のりじり)という方法が主に行われた。
2騎1組(左方・右方)で計10番の競走を行い一定区間の間に相手の乗尻行為あるいは馬そのものの進行妨害しながら、先着を競った。
騎手は主に衛府や馬寮に属する地下の武官から選ばれた。
武官の当色(とうじき)とする唐様の裲襠(うちかけ)装束を左方・右方によって色目文様を相違した衣装を身に付けて競技に臨んだ。
平安時代中期までは宮中の武徳殿で行われていたが、行宮・離宮・公卿の邸宅・神社の境内などで臨時の競馬が行われることもあった。
やがて武徳殿の衰微とともに臨時の競馬がほとんどとなる。
特に上賀茂神社・石清水八幡宮・春日大社などの臨時の競馬が知られた。
中世に至るまで盛んに行われた。
花園院の日記である『花園院宸記』には、正中2年正月13日条の記事として花園院が属する持明院統のライバルである大覚寺統の後醍醐天皇と皇太子邦良親王が皇位継承の正当性を巡って鎌倉幕府からの有利な裁定を求めて互いに鎌倉に使者を相次いで派遣した有様を「世に競馬と号す」と皮肉っている。

コースは直線で左右に埒(らち)と呼ばれる黒木の柵を設置する。
途中に目印となる3本の木を設置する。
騎射の場合には左側が射向(いこう)となるように木を埒の左側になるようなコースを設定し、それぞれに的懸(まとかけ)の牓示を行う。
競馬の場合、最初の木を馬出(馬場本)とし、2番目を鞭を入れて競いあう「勝負の木」とし、最後の木に勝負決定の標(しめ)を置いて傍に矛を立てて馬駐(うまとどめ)すなわちゴールとする。
観客は埒を望む中央の建物を馬場殿とし、その左右に幄舎を設置してそのいずれかで観戦することになっていた。
馬が馬駐に達する速さが競われたが、乗尻の技術なども問われた。
馬駐に至る前に落馬すれば負けとなった。
なお、2番目以後は負方が先行して出発する儲馬(もうけのうま)となり、勝方は一遅(いちじ)分時間を置いて後から出発する追馬と呼ばれた。
追馬は儲馬を追い越して馬駐に入る必要があった。

[English Translation]